YouTubeにカーゴ・カルトの映像がありました。
僕の記憶が正しければヤコペッティの「世界残酷物語」からの抜粋だと思います。
ひとまずカーゴ・カルトのまとめ。
今日はまず、話が枝葉末節にとらわれないようにするために
仮に3つの視点(ポジション)を設けることにする。
あくまでこれは便宜的なものであって、
実際にその場所には、人の数だけ違った視点があったはずだ
ということを最初におことわりしておく。
<1> 支配者
<2> 被支配者
<3> 学者
<1>19世紀末、主に経済的な目的や戦略基地の建設のために
競ってメラネシア社会に進出したのは
イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、オーストラリアである。
20世紀半ばには日本軍もニューギニアに侵攻している。
カーゴカルト、という言葉を初めて公で使ったのは
豪領ニューギニア軍事政府の准尉、ノリス・バード。
彼は1945年11月号の『パシフィック・アイランズ・マンスリー』誌で
初めてカーゴカルトの記事を書いた。
つまり、カーゴカルトという言葉自体、<1>が作ったものだ。
<3>の学者(ここでは主に人類学者のこと)も
もともと<1>と同じ立場に身を置く者であって
そのことが大きな葛藤も生んでいるように思う。
メラネシアの住民の多くが<2>被支配者に入る。
彼らの多くは、集権的な政治組織をもたず、
ひとつの政治的勢力を結集して行動するようなことはなかった。
<1>は<2>を野蛮と見なし、その支配を正当化しようとしてきた。
しかし<2>は、<1>の行った植民地行政やキリスト教化が進むに従い
独自に新しい社会の形を模索し始めた。
そもそも多くのメラネシア人にとって、無秩序な経済の変動や
それを内包する西欧の社会は理解に苦しむものだったようだ。
武力によって自分たちを支配する白人への嫌悪と、
白人の所有物への羨望、という相反する2つの感情が
”本来はメラネシア人の物であるカーゴ(積み荷)を白人達が横取りしている”
という神話を生み出した。
(少なくとも一部の人類学者は彼らの行動をそう解釈した。)
しかし<1>ー支配者側はその過程をうまく咀嚼できなかった。
西欧人にとっては、経済と宗教の間に関連性を見出すような
メラネシア人の宗教運動はまったくナンセンスなものでしかなかった。
こういった支配する側とされる側の微妙な緊張関係の中で
カーゴ・カルトという語り口が生まれた。
ではなぜ、このタイミングでなくてはいけなかったのか。
実は、支配者側はこの時、「さらなる支配の強化」を押し進めるための口実を探していて
「カーゴ・カルト」は、”弛緩した支配が招く悲劇”というラベルを貼るのに好都合だったのだ。
つまり、首輪をゆるめるとこんな悲劇が起こるよ、という言説に説得力を持たせるために
カーゴ・カルト活動が利用されたのだ。
このようにして、いわば策略的に生まれたカーゴ・カルトの語り口は
人類学者達の間で議論になる。
(この議論は一般人にはちょっと難解なものですが
詳しく知りたい方は下記文献をあたってみて下さい。こちらも参考までに。)
個人的に興味深かったのは、
その過程で「カーゴカルト」というカテゴリー自体が
解体されていったということだ。
西欧人は、メラネシアの人々の技術や工芸品を見て、それを「文化」と呼ぶが、
メラネシア人は西欧文化を見て、それを「カーゴ」と呼ぶ。
この二つの言葉は、ある程度お互いの「鏡像」になっているのだ。
つまり西欧人は、自分の内面の一部を
彼らの姿に投影していただけかもしれない、ということになってくる。
カーゴ・カルト論争は最終的に
「カルト的他者とは、帝国側自身の姿であってカーゴカルトはそれ自体存在しない」
という地点まで行き着く。
しかし、人類学者や社会学者がこの議論に拘泥している間に
カーゴ・カルトの語り口は独り歩きを始め、一般化してしまったようだ。
カーゴ・カルト運動はその後、
政治的、経済的に白人と対等な立場を築こうとする運動へと発展していった。
啓示的な神秘主義から世俗的な政治組織へ、
すなわち宗教的運動から政党や協同組合への転換という傾向がみられ、
同時に千年王国ははるか遠い未来、あの世に実現するとしんじられるようになり、
より受動的な運動になっていった。
三者を宗教という切り口から見るとどうか。
<2>の宗教運動はもともとあった土着的な精霊信仰に加え、
<1>が持ち込んだキリスト教に大きな影響を受けているが
それは次第に<1>が持て余すような形へと発展し、
両者の宗教的な世界観のつながりはねじれていった。
<3>人類学が学問分野として組織化されたのは19世紀の半ばだが
主な学会の前身になった原住民保護協会は
クエーカー(プロテスタントの一派)や福音主義者などの
人道的運動から発展した組織だ。
人類学の出発点は、キリスト教的な博愛主義なのだ。
つまり三者とも、元を辿れば何らかの宗教(観)に行き着く。
『千年王国と未開社会』の著者のピーター・ワースレイは
本の序論にこんな文章を添えている。
このような(カーゴカルトのような)運動はヨーロッパから遠く離れた地域特有の現象ではなく、ヨーロッパ史の中にも発見できるし、世界の至る所で発生している。それゆえ、これらの運動に関する文献は膨大な量にのぼり、一人でそれらすべての運動を調査することは不可能に近い。集約的な共同研究によっても、世界のあちこちで長い間に渡って発生し、しばしば様々な言語によって記録されている運動の資料を部分的に発掘できるにすぎない。(括弧内は筆者の補足)
同じようなことは今でも身近に起きている気がする。
ライト兄弟が、人類初の有人動力飛行を行ったのが
1903年 12月17日、ノースカロライナ州 キティホークでのことだ。
ライトフライヤー号が初めて空を飛んだ時
それを見ていた観客はわずか6人しかいなかったそうだ。
その後、飛行機は二度の大戦とグローバリゼーションを経て大型・高速化し
国境を越えて飛び回るようになった。
この乗り物がもたらした、カーゴ・カルトという思わぬ副産物が
20世紀という時代の一側面を浮き彫りにしている。
ジョン・フラム・デイの模様
カーゴ・カルトの大半は21世紀までに消滅したが、
現在でもカーゴカルトの流れを汲む「ジョン・フラム信仰」が
バヌアツのタンナ島で続いており、
ジョン・フラムが再来するとされている2月15日には毎年祭りが開かれている。
バヌアツ国会にはジョン・フラム信仰の議員も存在する。
バヌアツの島々には以前、欧州人の名付けた
ニュー・ヘブリデス諸島という呼び名があったが
1980年に独立した際、現在の国名に改名された。
「バヌアツ」とは現地語で「私たちの土地」という意味だそうだ。
(参考文献)
『千年王国と未開社会』(著/ピーター・ワースレイ 訳/吉田正紀)
『思想化される周辺世界』(岩波講座 文化人類学第12巻)